【與賀神社】佐賀県佐賀市

與賀神社(よかじんじゃ)の由緒 

欽明天皇二十五年(564年)に勅願造立され、

鎌倉時代は「与賀庄鎮守宮」で、 建暦二年(1212年)北条義時が社殿を再興、 

寛元3年(1245年)執権北条経時が勅により祭祀の礼式を定めた

と伝えられています。 


ついで、建長三年(1251年)には与賀郷の地頭であった 

大宰少弐資能安穏のため洪鐘一口が寄進され、 

永正十年(1513年)には神階一位に進められました。 


室町後期に、太宰府長官であった少弐政資公は 

山口の大内氏に追われ佐嘉に落ち延びて来て、 

文明十四年(1482年)に現在の赤松町龍泰寺一帯にあった 

父教頼の旧館を開き与賀城を築き、

與賀神社を鬼門の鎮守として崇敬し社殿を再興、 

楼門を造立し神事を修飾した。 


その後、少弐氏時代から高木氏、竜造寺氏、鍋島氏にかけては、 

与賀郷の宗廟として領主・藩主を始め一般士民の崇敬厚く、 

特に鍋島氏は佐賀城の鎮守、各代の産土神社として深く尊崇され、 数々の寄進をなされた。   


鎌倉時代から江戸時代までは、 現在の佐賀市西与賀町・東与賀町を含めた与賀荘一円、 

即ち佐賀城の南部・西部・北西部の地域の総鎮守宮であった。 

旧社格は大正14年に列せられた県社である。 


鍋島藩政時代には、 

神事として旧与賀郷の注連元(くめもと)行列をはじめ 

流鏑馬、連歌、管弦等特殊なものがあった。

そのなごりとして、 佐賀神楽、獅子舞を現在伝承している。 


主祭神   與止日女神(よどひめのかみ) 


配祀神  

八幡神 彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)  

住吉神 綿津見命(わたつみのみこと)   

乙宮神 宗像三女神(むなかたさんじょしん)  

印鑰神 天児屋根命(あめのこやね)     

応神天皇(おうじんてんのう)  

菅原道真公(すがわらみちざねこう) 


鎮座地 

佐賀県佐賀市与賀町2-50