全国に約12,000社ある天満宮の総本宮【太宰府天満宮】福岡県太宰府市

全国に約12,000社ある天満宮の総本宮【太宰府天満宮】

太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)は、

福岡県太宰府市宰府(さいふ)にある神社です。


御祭神の菅原道真(すがわらのみちざね)公は、

承和12年(845)に京都で生まれました。


幼少期より学問の才能を発揮し、努力を重ねることで、

一流の学者・政治家・文人として活躍されました。


右大臣であった菅原道真は昌泰4年(901年)に

左大臣 藤原時平らの陰謀によって筑前国の大宰府に員外帥として左遷され、

翌々年の延喜3年(903年)2月25日、道真公は住まいであった

大宰府政庁の南館(現在の榎社)において、生涯を終えられました。


門弟であった味酒安行(うまさけ やすゆき)が御亡骸を牛車に乗せて進んだところ、

牛が伏して動かなくなり、これは道真公の御心によるものであろうと、

その地に埋葬されることとなりました。


延喜5年(905)、

御墓所の上に祀廟(しびょう)が創建され、天原山庿院安楽寺と号した。


一方、都では疫病や異常気象など不吉な事が続き、

さらに6年後の延喜9年(909年)には藤原時平が39歳で死去した。


これらのできごとを「道真の祟り」と恐れてその御霊を鎮めるために、

醍醐天皇の勅を奉じた左大臣 藤原仲平が大宰府に下向、

道真の墓所の上に社殿を造営。


延喜19年(919)には勅命により社殿が建立され、

これが安楽寺天満宮の創祀です。


それでも「道真の祟り」は収まらず、

延喜23年(923)には皇太子保明親王が21歳で死去。


狼狽した朝廷は、延長と改元したうえで、

4月に道真の官位を生前の右大臣の官職に復し、正二位の位階を追贈した。


しかしそれでも「祟り」が沈静化することはなく、

保明の遺児慶頼王が代わって皇太子となったものの、

延長3年(925)には慶頼もわずか5歳で死去した。


そしてついに延長8年(930)6月、

醍醐天皇臨席のもとで会議が開かれていた、

まさにその瞬間、貴族が居ならぶ清涼殿に落雷があり、

死傷者が出る事態となった(清涼殿落雷事件)。


天皇は助かったが、このときの精神的な衝撃がもとで床に伏せ、

9月には皇太子寛明親王(朱雀天皇)に譲位し、直後に死去するに至った。


承平元年(931年)には道真を側近中の側近として登用しながら、

醍醐と時平に機先を制せられその失脚を防げなかった宇多法皇も死去している。


わずか30年ほどの間に道真「謀反」にかかわったとされた

天皇1人・皇太子2人・右大臣1名以下の高級貴族が殺害されたことになる。


猛威を振るう「怨霊」は鎮まらず、

道真には太政大臣追贈などの慰撫の措置が行われ、

道真への御霊信仰は頂点に達した。


ついに正暦元年(990年)頃からは

本来は天皇・皇族をまつる神社の社号である

「天満宮」も併用されるに至った。


寛和2年(986年)、

道真の曾孫菅原輔正によって

鬼すべ神事が始められるようになった。


寛弘元年(1004年)、

一条天皇が初めて北野天満宮へ行幸されて、

太宰府へも勅使をつかわせて以来、士庶の崇敬を広く集め、

とくに承徳元年(1097年)、

大江匡房が太宰権帥に任ぜられてからは神幸祭など、祭祀が厳かになったという。


その後、「天神さま」と崇められるようになりました。


長い年月、道真公への崇敬は絶え間なく続き、

御墓所でもある太宰府天満宮は京都の北野天満宮とともに

全国約12,000社ある天神さまをお祀りする神社の総本宮と称えられ、

「学問・至誠(しせい)・厄除けの神様」として、

年間に約1000万人の参拝者が訪れています。


旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。


鎮座地

福岡県太宰府市宰府4丁目7-1