美奈宣神社(林田)
●由緒
今から1800年前、古処の山から見下したところに筑後川が流れ、
よく土地の肥えた豊かな村がありました。
神功皇后摂政2年、神功皇后が九州にお見えになった時、
古処の山に住む羽白熊鷲(はぐろくまわし)という悪者退治を、
村人は懇願しました。
皇后は、神様に祈り、
「この潮干玉を使って川の水をからにし、川蜷に頼んで、
一晩のうちに城を作り、今度は潮満玉を使って、
一度に水を入れ水攻めにして滅ぼしなさい」
とお告げになった。
このあと、村は静かな平和な村となりました。
神功皇后は神様をお祭りするお社を建てようと思い、1羽の白鷺を放った。
白鷺は空に舞い上がり、筑後川に沿ってしばらく飛んだ後、
こんこんと清水の湧きでる所に舞い下りました。
皇后は、その近くに神様を祭るお社を建て、
蜷城(になぎ)を美奈宜(みなぎ)とあて、美奈宜神社と命名。
また川蜷が守ってくれた村里をニナシロと呼び、
なまって、ヒナシロという地名なったといわれる。
この白鷺塚は今も片延字白鷺1番地に残されています。
●御祭神
今から1800年前、父君景行天皇の教えにそって、
仲哀天皇は皇后と熊襲を征伐されたが、
不幸病にかかり崩御されました。
皇后はこのことを泌し、その根幹新羅を討つべく、
出師の計画を立て、兵員を集め、兵船、軍器を整え、
神々を祭って本邦最初の外征に肥前名護屋から出征していきました。
皇后は航海中船中で素戔嗚尊、大己貴命、事代主命の3神に戦勝を祈願されました。
海上恙なく船は新羅の港に到着し、戦端は開かれました。
戦いは連勝し3カ条をもって降伏し大勝利を収め、
高句麗、百済も来貢し、肥前、髙橋の津に凱旋されました。
そのあと戦争に勝利を祈られた3神を祀りました。
その神が美奈宜神社の3神です。
御利益:縁結び、商売繁盛、厄除、健康
●名神大社
奈良朝時代、天下に事ある時、
国内の著名な神社に勅使が参向して祈願する神社(名神大社)が
当時全国で204社(祭神数285座)ありました。
続日本紀によると、
天平2年(730年)9月渤海の王が奈良の朝廷に進物を献上したので、
翌月10月に名神祭が行われその進物の一部を各神社に献納された。
九州本土では以下の12の神社が進物の献納を受け名神祭に預かっています。
筑前国(7社)
宗像神社、住吉神社、八幡神社、志賀海神社、美奈宜神社、筑紫神社、竃戸神社
筑後国(2社):髙良玉垂命神社 豊比賣神社
肥前国(1社):田島坐神社
肥後国(1社):健盤龍命神社(阿蘇神社)
豊前国(1社):八幡比賣神社(宇佐神宮)
この12神社だけが名神祭が行われる度に勅使や国司が勅命を奉じて参向した神社で、
豊後国・日向国・薩摩国4カ国(鹿児島県および宮崎県)には
名神祭に名を連ねた神社は1社もありません。
前記のように美奈宜神社は奈良時代・平安時代に名神祭の栄誉を受けた神社です。
三代実録によると清和天皇貞観元年(859年)正月27日、
筑前国従五位の下 美奈宜神社 従五位上の授位が行われ、
延長5年(927年)に延喜式では美奈宜神社は
式内大社に列せられ明神帳に記載されています。
旧社格:縣社
鎮座地
福岡県朝倉市林田210
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