【中津隈宝満神社・中津隈前方後円墳】佐賀県三養基郡みやき町

中津隈宝満神社・中津隈前方後円墳


■中津隈宝満神社

宝満神社は、聖武天皇の天平4年(732年)に

筑前国竃門山宝満宮(現太宰府市)の神霊を勧請、松本に神社を建立しました。


弘仁4年(810年)に現在の地に社殿を移し、

北茂安では千栗八幡宮に次いで古い創祀です。

その後山王社・太宰府天満宮を勧請したと由緒年紀に記してあります。


戦国時代、この周辺は板部氏の所領でした。

その後いったんは西島領主・横岳氏に移りましたが、

元亀3年(1572)に龍造寺隆信が横岳氏を攻め、

神埼の崎村城にいた犬塚家広が「西尾城攻め」の守りとして

崎村城を支城にし、ここを本城として築かれたと言われています。


しかし、龍造寺氏が衰退し、鍋島氏が勢力を増すと犬塚氏も鍋島氏に仕え、

この地から小城に去ってしまい、やがて城も廃れていきました。


今でも中津隈西地区には

「タチ」「タチボリ」「カマウチ」「クラヤシキ」等の城址を示す地名が残っています。

現在の社殿は中津隈城址に建てられています。

旧社格:村社。


御祭神:玉依姫命、大山咋命、管原道真


■中津隈前方後円墳

前方部は中津隈宝満神社本殿により削平を受けており、

高さ約7m、直径約36mの後円部のみが現存しています。


表層から確認されている埴輪や須恵器などから、

5世紀中頃から後半に築かれたものと推察され、

この地方の豪族の墳墓と考えられています。


この場所から西の方角に2キロ行った上峰町には

応神天皇の皇曾孫、都紀女加王(つきめかおう)王墓があり、

関係があるのではないかと言われています。


拝殿の東南側、露出している横穴式古墳の石室があり、

5世紀後半から6世紀にかけてのものと推測されています。


鎮座地

佐賀県三養基郡みやき町中津隈3792