【小旛八幡宮・代継宮】熊本県熊本市

●小旛八幡宮 

由緒

小旛八幡宮の起源は定かではありませんが、 言い伝えでは

和銅年間(8世紀)には 社が立っていたといわれています。 

「肥後国誌」には、次のような縁起が記されています。 

「中国(唐)の皇帝の皇女が七歳の時に男子を生み、 怪しまれて母子ともども海に流され、 

日本の薩摩(鹿児島県)に流れ着いた。 人々は憐れみ養っていたところ、皇帝の迎えが来た。 

帰国するとき、皇女親子の石像を立てられたが、 その後石像は割れ、

そこから八本の白旗が飛び出てきた。 

その内の一本が当地に飛んできたので、 その地に八幡宮が建立された…。」 


戦国期に入ると兵火によって荒廃し、 一帯は森のようになっていました。 

その後、細川忠利が藩主として熊本に入国した際、 子飼付近に立派な森があることに感心し、

村の庄屋にその由緒を尋ねました。 


以前そこに八幡宮があったことを知ると、 同社の再興が命じられました。


八幡宮は岩清水八幡宮や鶴岡八幡宮に代表されるように、 

武家、とりわけ源氏にとっては重要なものです。 


源氏の流れをくむ細川氏にとっても 

八幡宮を再興する事は非常に大切なものだったのではないでしょうか。 


御祭神:八幡大神(誉田別命、比咩大神、息長帯姫命) 


御利益 出世開運、交通安全、学業教育、家内安全、 災厄削除、恋愛成就、夫婦円満等 


鎮座地 熊本市中央区子飼本町1-20 


●代継宮(よつぎぐう) 

由緒 

村上天皇の御代、応和元年(961年)に 肥後の国司として紀師信公が当国赴任の際、

 茶臼山南麗(現花畑公園)に、肥後の国の守護神として祀り、 

宮城の四隅に木を植えて四木宮と称したのを創祀とします。 


慶長七年(1602年)、 国主加藤清正公が茶臼山に熊本城を築城するにあたり、 

「尚城頭より見下ろすことは甚だ恐れ多し」として、 白川河畔、本荘の地に遷座されました。 


寛永十四年(1637年)藩主細川綱利公が幼少にして襲封され、

 “これ一に神徳の加護によるもの”として、 旧来の「四木宮」を「代継宮」と改称せしめ、

自筆の神号額を献奉されました。 


天明元年(1781年)細川重賢公は社殿を造営し、 先祖細川藤孝公を合祀して、

和歌管絃祭を行なわれました。


白川改修工事に伴い、平成元年、 

現地(立田山東峰天拝山頂上) 天を拝む山に社殿を造営して遷座されました。 


代継宮は、その名の由来通り、 ”代を継ぐ“神社として、 

家督相続・後継者継承・安産祈願・子宝の神として 信仰されています。 


また、参勤交代時代、安全祈願祭が執り行われた、 

代継宮海陸航路安全守護の御札や、 熊本の最古の地図があるとおり、 

交通安全の神としても尊崇されています。


御祭神 

住吉大神(すみよしおおかみ) 応神天皇(おうじんてんのう) 

神功皇后(じんぐうこうごう) 紀貫之朝臣(きのつらゆきあそん) 

細川藤孝朝臣(ほそかわふじたかあそん) 


鎮座地 

熊本県熊本市北区龍田3-25-1